会社の経営がうまくいかずに借金を重ね

このサイトでは「お金を借りる」ことの基礎知識や最新の情報をお伝えしていますが、ここでは実際にお金を借りるとどうなるのかについて、お金を借りたことのある人に実体験を取材しました。
お金を借りることは幸せをつかむことになるのか?それとも不幸の入り口なのか?キャッシングでお金を運用することはは天国なのか地獄なのか?
とても重いルポルタージュになっています。じっくり読んでみてください。


高田透さん(39歳)の場合

高田透さんのプロフィール

名前(仮名) 高田透
性別 男性
現在の年齢 39歳
借入時の年齢 26歳
借入時の職業 経営者
最終学歴 大学理工部卒
出身地 東京都

借金から得た教訓

一言で「借金」と言っても様々な種類があるし、借金をする理由も多様である。
さらには、そもそも借金をしたことない人も多いと思う。
さて私は、幾つかの理由で幾つかの種類の借金をしたことがある。
そして借金をしたからこそ経験したこともある。
振り返れば、別に必要な経験でもないが私の人生で忘れることのできないエッセンスとだけは言えるので、なるべく時系列になるように思い出しながら、ここに書いてこうと思う。

初めての借金

社会人になり会社勤めの日々。
景気もよく派手な業界だったので、経費で六本木の高級キャバクラで飲むことが多かった。
新米の私は経費など使える立場ではなかったので、もちろん先輩たちに連れて行ってもらって。
そもそもお酒が好きだし、女性も大好きだから楽しかった。
すると、プライベートでも「ちょっとだけ飲みに行こう」という風に思うようになり、繁華街へ。
給料のほとんどを使うようになると、生活費が当然足らない。
「来月の給料日に返そう。ちょっと数万円だけだから大丈夫だろう」それが初めての借金。

しかし、今月その数万円がない人間に来月数万円の余裕があるわけない。
繁華街へ通いながら「返してすぐに借りる」それを数回繰り返していると、少しずつ借りる金額が多くなり、いつの間にか満額100万円を借りていた。
ここまでくると毎月の返済だけでも苦しく、もう一社別の消費者金融のカードを作っていた。
その後それもついに満額まで借りることになる。
その時は返済のために働いているような状態となった。

そんな時期がしばらく続くと、幸か不幸か、まだ20代後半なのにガンが見つかりすぐに手術。
病気自体は完全に治癒した。
そこで、学生時代に母が私にかけていた「ガン保険」でちょうど200万円が手に入った。
2度と遊ぶ金のために金は借りない!と心に誓い全額返済!
しかしこれはまだ序章が終ったに過ぎないと、当時はまだ知る由も無かった。

借金がなくなりスッキリとした

仕事に集中し取り組んでいくと、新しい事業を始めることを夢見るようになっていた。
ちょうど30歳、心機一転独立の道へ進む。
創業資金は出資という形で支援してもらい1000万円調達。
順調な船出だった。
この事業には新たに開発するものがあり、その開発期間は売り上げがないのは承知のこと。
詳しくは記さないが想定とは違う様々な事が多発し、この開発期間が大幅に遅れ資金がショートし始める。
なんとか開発を終えるまで頑張ろうと、運転資金調達のため銀行を回り融資を取り付けた。
ようやく開発が終わると財務状態ギリギリで世に出て行く。

様々なメディアに取り上げて頂いたし、誰もが知っているメジャーな賞も多数受賞するなど、「これから順調にいくぞ」「これまでの努力がようやく実を結ぶんだ」と安堵感に浸った時期。
プライベートでは子供を授かり結婚したり、母親を急な病気で亡くしたりと身辺は騒がしい時期でもあった。

念願だった営業活動が始まり従業員と一緒に飛び回る日々。
しかし、これまでの苦労が報われるとの思いは、虚しく崩れていく結果となった。
全く売り上げが伸びないのだ。
長い開発期間で、赤字続きに耐えられる体力は会社にはなく、追加の融資を得ようと銀行へ行くが、やはり簡単なことではなく、行き詰まる寸前まで経営状態は悪化。

その時、借り入れが多くなることへの恐怖は全くなく、ただただこの事業を立ち行かせるために運転資金が欲しい。
もう少し時間があれば必ず好転できる。
そのことだけを考え導いた方法は、父親に相談して保証人として助けてもらう。
それが残された銀行融資への最後の可能性だった。

父親に保証人をお願いすると…

父は賃貸物件のオーナーで家賃収入があり、会社を定年していた当時は家賃収入でのんびりと過ごしていたし、その資産が残りの人生の安定を担保しているものでもあった。
思春期の頃から父親との関係は決して良好とは言えず、母親とは普通に会話もするし進路などの相談もしていたが、父親となると全く話をすることはなく、むしろ疎んじていた。
母を亡くした後もその関係は改善することはなく、自分としてはずっとこのままで構わないと思っていたし、自分の家庭もあり住む場所も別だったので、父親のことを考えること自体が少なくなかった。
しかし、その父の不動産を担保に入れて保証人となることが唯一の銀行融資の方法となってしまった。

拒絶感すら持っている父親との久しぶりの会話。
気まずさからか私の言葉は唐突だった。
「会社の融資のために親父の協力が欲しいんだ。これでもう大丈夫だからよろしくお願いします。」
父の答えは「何を言ってるんだ。どんな事業をやっているかも知らないのに、そんなこと出来るわけがないだろ。そんな非常識な感覚で事業ができるはずない。」との答え。腹が立った。
俺の家族がどうなっても構わないのか。と。
しかし、父を説得するしかない私は、諦めることが出来ないので、ぐっと感情は押し殺し、一生懸命に冷静になろうと押し黙った。
しばらく沈黙が続き、落ち着いて考えてみると、父親の意見は至極まともで私の足らなさに気がついた。

まずは親父との信頼関係を築こう。それから時間を見つけては実家に戻り、父と仕事だけでなく様々な話をするようにした。
時には泊まりで酒を酌み交わしながら、父の若い頃の話に興じる事もあった。
他界した母には到底聞かせられない話で大笑いしたことなど、今振り返ると、崖っぷちの状況ではあったが、楽しく素晴らしい思い出となった。
そんな時期がしばらく続くと、父の方から「保証人になるよ。頑張れよ。」と一言。
あまりに急だったので驚いたが、嬉しさと感謝で膝が震えている自分がいた。

そうなると時間的な余裕が無い私は、早速具体的な手続きを進めようと、書類を集め銀行との協議に入り、事務的なことを父にお願いしたりした。
そして父が保証人と担保提供者となり追加融資は実行された。
会社は息を吹き返した。
一息つくとある思いが沸き起こった。
それは、事務手続きをしていた時の父の物忘れの多さ。
家族で誰よりも綺麗好きだった父、一人で住んでいる実家の散らかり具合は不自然だった。まさか認知症・・・!?

「みんなやることだし健康診断に行こう」と父を誘い、認知症の検査に行った。
診断結果はアルツハイマー型認知症。
まだ早期なので自宅療養と投薬で様子を見ていくこととなった。
会社の融資という目的で父との信頼関係を築くため、今までになく多くの時間を共有し会話をしていったら、それは父の病気を見つけることにもなった。
「一難去ってまた一難」とは言え、まだ症状は軽いので実家で弟と父が二人で暮らすことにした。

相変わらず売上は停滞し、身体に異変が!

公私ともに慌ただしい中、会社は父のおかげで運転資金を調達し、従業員と一緒に巻き返しに向かって一直線。
地道な営業活動、PR活動、相変わらず反響は良かったが売り上げは伸びなかった。
業界の中での認知度は上がり一定の評価ももらうのだが、赤字体質は変えることが難しく限界が見えてきた。

このままだとまた資金が底をつく。
この状況で追加の融資は不可能。
先を見ると不安な要素ばかりだったが、できることはやり尽くそう。
そう自分に鞭を打って、一つ一つ取り組んだ。従業員も一緒に頑張ってくれた。
誠実に懸命に様々な人の力を借りて完成させたもの。出来栄えにも自信がある。
必ず大丈夫!と自分言い聞かせた。
しかし資金は減る一方で、次第に銀行への返済も滞るようになってしまった。
経費を減らすべく家族を連れて、父の住む実家に帰りたかったが、その頃は父の認知症も進行していて、とても幼稚園にも入っていない子供と一緒に暮らすことは難しかった。
八方塞がりのまま時間だけが過ぎていき、気づかぬうちに不安とストレスで精神的にも参っていたようだった。

共同開発した取引先へ行く用事があり、車で東名高速を走っていた。
無事に仕事も済ませ、家に帰ってゆっくり休もうと思って運転していた矢先、突然、強烈なめまいと湧き出すような油汗が身体を襲ってきた。
今にも気を失いそうな感覚。「脳か!?心臓か!?俺はどうなったんだ!?」
昨日明るく私を送り出してくれた家族を思い出す。
「もしかしたらこのままもう会えないのか」なんとかSAまでたどり着くと、症状は落ち着いてきた。まだ帰宅までには数時間の運転必要だが、気分も良くなったし眠気もない。
一休みして再度車を走らせた。
しばらく走るとまた同じ症状が出た。
今にも隣の長距離トラックと事故を起こしそうな状態。
路肩に駐車し救急車を呼んだ。

知らない街の救急病院。そこで一通り検査を受けた。医師曰く「とりあえず脳の疾患ではないです。あとは心臓かもしれませんね。心臓は一週間ほど入院して検査しないと結果はわかりませんから、このまま入院してください。」とのことだった。
私は「今、体調は悪くないから地元に帰ったら病院行きますね。」と言う。
医師は「もし心臓が原因の場合、帰り途中で今度は心拍停止するかもしれませんよ。」
じゃ、入院します。
様々な検査をして退院した。診断結果は心臓にも疾患はないので心労からのパニック症状ではないかとのこと。
ストレスには強いと思っていたが、最悪の結果は免れて一安心ではあった。
帰宅し家の玄関で会った妻の、目を潤ませながらの笑顔は忘れられない。
この妻と夫婦両輪でこの状況を乗り越えようと心に誓い抱きしめた。

今現在の自分であれば、経営者として事業家として、もっと前の段階で手段を講じ冷静に対処することが出来たと思うが、このころの自分は何かに取り憑かれたかのように「何としてでもやり通す。もう少し時間があれば必ず切り抜けられる。」と盲目的になっていたのだと思う。
これもまた経験した今だから言えることで、無駄な経験は無いのだとも思うが、この後に色々な人に迷惑や心配をかけていく自分を思うと、恥じるばかりである。

一気に借金をして一縷の望みに賭ける

資金が底をつき、銀行への返済はもちろん従業員の給与、自らの家庭の水道光熱費も払えない状況で身動き一つ出来ない状態。
私は個人で消費者金融、カードローンの契約を数社一気にした。
個人の借金はなかったし、前年の申告上の収入はあったので問題なく全て審査が通った。
そして全て一気に満額まで借りた。
その場しのぎであり、傷を深くするだけのことなのはわかっていたが、一縷の望みにかける思いだった。
従業員には「この資金がなくなったらもう雇えないし、会社自体も続けられない」と言った。

数ヶ月後、毎日全ての借入先から電話がなるようになった。
返済できないからだ。
事業系融資の銀行は優しかった。すぐに借入条件を変更し、毎月の返済額を最小限に抑えた。
大変なのは個人の借入先。
そして家の水道光熱費。
事業系の融資に関しては督促状も会社に届くから私だけが対応すれば良いが、個人の借入や水道光熱費は、妻子が住む家に督促状が届くのだった。
それまでも家計は節約してもらっていたが、心配させたくなかったから詳しく会社の状態を話さないでいた。
しかし、督促状が山のように届き、またその内容も数千円光熱費すら払えない状況であることが妻に知られるようになる。

妻は怒るわけではなく、ただ「どういう状況かちゃんと説明してほしい。私ができることはしたいから。でも何も知らないでいたら不安だし、助けられない」と言った。嬉しかった。
しかし、もうどうにかなる事態ではなく、私は簡単に会社の状況を説明して「大丈夫、必ず何とかするから。」と慰めるしかなかった。
そうは言っても、状況は悪化するばかりで、妻に渡すお金も無くなっていくばかりだった。
妻の不安も極限に達し、言い合いになることもあった。
私は申し訳なさと情けなさ不甲斐なさ、そんなものに苛まされながら事態は悪化の一途を辿る。

督促の電話には「来月末には入金があるからそこまで待ってください」とやり過ごすしかなかった。
しかしそんな予定はない。
そうなるように努力するだけだった。
そして「入金がなくて払えません」という現実の繰り返し。
もうどうにもならなかった。
頭の中では四六時中「どうしよう。どうすればいいんだ。」と答えのない問答を繰り返す。
そんなある日、駅のホームで駅のいつものアナウンスが耳に止まる「1番線を特急列車が通過します」ふと「目の前のそこに飛び込めば楽になる」と頭をよぎった瞬間に身体中を重苦しく支配していたものが、全て吹き飛び久しく感じていなかった安堵感に満たされた。
ゾッとして我にかえる。
もう一押し何かあれば、きっと躊躇なく飛び込んでいったであろうと思う。
あと一歩で最愛の家族に消えることのない影を負わすとこだった。

根本的に変えなければやり直すことはできない。と事業を根本的に見直す決心をした。
一緒に苦渋を舐めた従業員の解雇、車や保険、父の愛情で担保になっている父の不動産。
全てを失うことそして実家に帰って再起を図ることにした。
妻に相談すると快く「あなたについていきます」と明るく言ってくれた。
その目の奥には彼女の強い決心と愛情があったのだと思う。

諸々の手続きを済ませて、法人個人ともに負債はなくすことができた。
しかし手元に現金は残らず、少しばかりの資金を用立てて、身軽になった会社をサラリーマン時代の専門分野で立て直そうと思うが、借入が出来る状態ではなかった。
恥ずかしかったが家族を守るためには親戚を頼るしか無かった。
何人か私の方の親戚に頭を下げたが、余裕ある人は少なく借りることは出来ない。
そこで最後の手段で妻の両親に話をすることにした。
妻の実家はとても円満な家庭。
さらに私の子供が初孫でとても可愛がってくれていた。
私にも気を配ってくれる素晴らしい義父母。
しかし、この状況でお金を借りるとなると話は別だと私は思っていた。

義父に電話した。状況を正直に説明して「お金の相談をしたい」と伝えた。
結婚するときに初めて会った時とは比べものにならない緊張。
怒鳴りつけられたり、離婚することを勧められたりもあるかもしれない。と。
そして会う約束をした。義父は私の会社に来てくれて、詳しく今までのこと、これからの考え方などを説明した。
静かに聞きながら義父は数百万円を貸してくれた。
憤りはなく心配している心の内を感じ、ただ申し訳なかった。

借金をしたおかげで見えてきたこと

借りた資金で当面の生活費を確保できたので、私はコツコツと仕事に集中した。
おかげで少しずつ仕事の成果が出てくるようになり、未だ十分ではないかもしれないが家族円満で生活をおくれている。
そして、義父には定期的に近況を包み隠さず話すという関係が出来上がった。
生活に困窮し義父母にお金を借りるという一般的には最悪な事態だが、それがあり私はすべてをさらけ出し、関係は以前よりも良く深くなっていることを実感している。
将来、義父母が歳を重ねたて不自由になる時、私の家庭を是非頼って欲しいし、それを心から願う。
義父母も私になら気兼ねなく相談できるだろう。

自身の不甲斐なさから借金を重ね周りに苦労をかけてきたが、その過程、苦痛の中から、父親との確執がなくなり、妻との関係がより深く濃くなり、義父母からは実の息子のように愛情を注がれるようになり、結果的に借金が人生のエッセンスとなった。
決して「借金は素晴らしい」と言いたいのではなく、人生に無駄な経験はないということ、そして、苦難の時に、僻んだり妬んだりではなく、バカの一つ覚えのように自分を信じて周りを信じて歩めたのが良かったのだと思っている。
そんな風に育ててくれた親に感謝しています。


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いかがですか?

お金を借りることは、そのお金の使い方によっては天国にも地獄にもなります。
お金の地獄に落ちないように、賢くお金を使ってくださいね!借り過ぎには注意!

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